東大ファッション論集中講義のまとめと考察。
東大ファッション論集中講義の中から
着物から洋服へ移行しなかった理由についてまとめと考察しています。
明治政府は、着物→洋服を積極推奨。
しかし、女性の洋服着用率は1%
洋服が進まなかった理由は
ドレス下に着用する
締め付ける下着類がとにかく苦しい。
洋服を縫う際に着物と違って
パターンが必要。
パターンが高価で買えない。
仕立てできない。
高価な洋服を買うしかない。
ならば、従来通り、着物でいい。
なぜ、高価な洋服着て
苦しい思いしないといけないんだ。
と要約すると
こんな理由で洋服化は
すすみませんでした。
1937年から日本は戦争に突入し、
1940年に国民服
1942年に婦人標準服が制定され
和服と洋服の様々なバリエーションが用意されましたが
普及せず、女性はモンペを作って対応しました。
西洋が二股のズボンは男性服とみなされていたため
女性のファッションとして受け入れるまで長い格闘
がありましたが、日本は戦時中という非常事態だからか
あっさりと受け入れモンペを経験したことは戦後の洋装化の
流れを加速化させることになりました。
戦後に続きます。
日本の洋服化が一気に進んだのは、
日本が戦争に負けた1945年からになります。
洋裁学校は速やかに開催され
アメリカからの情報がどんどん入ってくるように。
1952年にサンフランシスコ講和条約により
日本が国際社会へ復帰すると
フランスからクリスチャンディオールが紹介され
大ブームに。
型紙なども豊富に供給されるようになって
一気に洋服化がすすんでいきました。
国際社会の中で日本のアイデンティティを再構築するため
日本人すべてが葛藤と奮闘の歴史に巻き込まれてきたのかを
示しているのが、洋装化なのです。
日本の近代化において、西洋のファッションは決定的な
役割を果たしたといえるでしょう。
ここからは私見です。
着物から洋服への道はゆるやなかものでなく、
戦争を境に断絶したものだったんですね。
着物という民族文化が国家、国境に巻き込まれ
断絶したものゆえに日本人には、
どこかに着物を着たいという感情が
マグマのようにたまっていて、それがある時に
吹き出してくるのかもしれません。
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